hachinogy's tumblr
多くの教育者が異口同音に口にするのは、「教育者とは無力な存在である」ということである。多くの優れた教え子を育んだ、優れた教師ほどそう言う。そして、人から「いえいえあなたはあれほど多くの立派な人物たちを育てたではないですか」と言われると、きまってこう答えるのである。
「私が育てたのではない。彼らが自分で育ったのだ」。
これは、教育の本質である。人間は、他人から育てられて育つものではない。自分から育とうとしない限り、絶対に育たないのである。
「卒啄同時」という言葉があって、ひな鳥がかえる時、親鳥が殻を外側から突くのと同時に、ひな鳥も、内側のからその殻を破ろうとすることを指す。この卒啄同時が、教育においては重要だという禅の教えである。
その意味でいうと、教育者も、手を差し伸べるとかヒントを出すことくらいはするのだから、全くの無力ではない。しかしながら、やはりひな鳥がかえるためには(子供が育つためには)、まずはひな鳥自身が自ら殻を破ろうとしなければならない。

私が今の日本の教育行政に対して一貫して批判的なのは、教育行政の要路の人々が「こうすれば子どもたちは勉強するようになる」と信じている利益誘導の「リアリスト」ロジックはもうとうに破綻していることに彼らが少しも気づいていないからである。
今後も彼らは懲りずにさまざまな「利益誘導」によって、子どもたちを勉強させようとして、そのすべてに失敗するであろう。

彼らが「学校教育の目的は次世代を担うことのできる成熟した市民を育成することである」という本義に気づくまで、いったい私たちはあとどれくらいの時間を無為のうちに過ごさなければならないのだろう。

さらに、もう一つ、ぼくが講演をする中で発見したのは、「現代の日本には神話が欠如している」ということだ。
講演をしていると、会の終わりに質問タイムを設けることがある。来場した聴衆の質問をいくつか受けつけるのだけれど、そこで時折、いやに切羽詰まった、鬼気迫るような質問を受けつけることがあった。そういう質問者は、こちらを脅すというわけではないのだが、妙な切迫感があり、襟を正させられる。彼らは、時に小さな子供だったり、あるいは言葉を知らない女子大生だったりするのだけれど、そんな彼らでさえも、今切迫した、のっぴきならない状況にあるというのは、彼らの醸し出す独特の雰囲気によって、質問を受けたぼくにも伝わってくるのだ。
で、そういう迫力のある質問者に対しては、こちらもそれなりに価値のある返答をしなければならないと思うのだが、これが最初はなかなか上手くいかなかった。というのは、彼らはけっして慰めを求めているわけではないというのが、やがて分かってくるからだ。彼らは、勇気づけてほしいわけでも、自分を認めてもらいたいわけでもない。だから、単にポジティブなことや前向きなことを言っても、なかなか響いてもらえなかった。
それよりは、厳しいことを言って刺激を与えた方がはるかにましであった。しかし、これも善し悪しなところがあって、質問者が本当に弱っている場合などには、下手に喝が効き過ぎるとかえって心を萎縮させてしまうことにもつながるので、頃合いが難しかった。
そうしたぼくが最後に辿り着いた方策というのは、ポジティブでもネガティブでもない、どちらの価値をも含有した、ある種の両義的な「物語」を提示して、その物語の中に、彼ら自身が本当は気づいている厳しい真実というものを、自分自身で見出してもらうような形にするのが一番いいということだった。
そして、さらにそこでハッと気づかされたのは、それは「神話の役割そのものではないか」ということだった。

で、このデータ結果を見た軍関係者は、みんなこういう結論を出しました。

「この被弾しまくっている場所が弱点だ。そこを強化しよう!」
まぁ、そういう結論になりやすいだろうなと思います。
が、ワルドさんの結論は全く別のものでした。

「それは間違いだ!最も被弾の少ない箇所こそ、補強しなければいけないのだ!」

そしてその意味で、障害者も、障害者じゃない人間も、一緒なのである。けっして、能力や、その能力の持っている価値が一緒なのではない。生き方や、成長の仕方が一緒なのだ。

Q)漫画というジャンルの魅力はなんでしょう?

 絵と言葉です。ストーリーがあってストーリーを絵で表現するんですけど、その表現のためにカット割りをしますよね。カット割りが絶妙な感じで展開しますと、読み手の気持ちを本当にとことん揺さぶることができるんです。いい映画とか、いい音楽を聴いて感動するような。ものすごく深いところまで突き刺さっていくような揺さぶり方をすることができます。自分も揺さぶられましたし、おなじ揺さぶりを描いて、誰かに返したいなという感じがします。
 表現のジャンルとして考えた時、漫画はどちらかというと音楽とか映画の方に近いんじゃないかなと思います。小説は読みながら目をとめて、この主人公はここでこんなことを言ってるけどとか考えることができますよね、時々。映画は始まったら最後まで一気に見ますよね、途中で止めて考えませんよね。音楽もそうですよね。ここでシンバルがなったから、まてこのシンバルの意味はとか考えませんよね。一気にエモーショナルに感情を引き込んでいく。漫画も似たようなところがある。ちょっと待ってと、ここで止めたくても次のコマが目に入ると、ノンストップで最後まで行ってしまいます。

『忠臣蔵』のカタルシスはそのように構造化されている。
「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」とき日本人は終わりのない不安のうちにさまざまな解釈を試みる。そのときに、日本人の知性的・身体的なセンサーの感度は最大化し、想像力はその限界まで突き進む。中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するように日本人の集団が力動的に構成されている。
たぶんそういうことなのだ。
だから、それが天皇制の政治力学と構造的に同一であることに私はもう驚かない。

ジャービスの本によると、アメリカでは“パブリック原理主義者”によるさまざまな実験が行なわれている。

たとえば、ジョシュ・ハリスのドキュメンタリーフィルム『We live in Public(われわれはパブリックを生きている)』。ここでは、私生活がすべてパブリックにされた。

ジョシュは、室内の隅々まで写せるようアパートに32個のカメラを設置して、彼とガールフレンドのすべての行動を100人のボランティアに公開した。シャワー、トイレ、セックス、喧嘩といったまさにプライベートなことすべてが、Webを通じて世界に放送されたのだ。

2人は、ロフトのなかにあるプロジェクターをとおして、ネットユーザーたちが自分たちについて交わす会話を知ることができた。さらには1日に2度、電話を受けて視聴者と会話を交わすことまでした。

この“実験”は1999年に開始され、2000年1月1日に、ニューヨーク市警によって強制的に終了させられた。しかし権力の介入がなくても、このプロジェクトは失敗に終わっていた。

ある日、ジョシュはガールフレンドと大喧嘩をした挙句、彼女を殴ろうとした(ように見えた)ことで、寝室を追い出されてソファに寝ることになる。この“事件”を目撃したネットユーザーたちがジョシュを批判し、ガールフレンドにさまざまな助言をしたことで、二人の関係は破局に至った。

後に、ジョシュは次のように語っている。

「彼ら(ネットユーザー)は彼女に力を与えたけれど、それにはトレードオフがあった。彼女の人間性のひとかけらを取り去ってしまった。彼女の脳の一部が、天上からの存在によって拡張された」

ジョシュによれば、彼女は「人生をクラウドソーシングしてしまった」のだ。